メルマガ:週刊フランスのWEB
タイトル:hebdofrance 03-10-2005  2005/10/03


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                                    Davide Yoshi TANABE
                                         vous presente

              ≪週刊フランスのWEB≫
                    第232号

Tokio, le 3 octobre 2005

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Index (目次)
        1.パリのメトロ ノマンクラチュール(4)ルイリ=ディドロ駅
        2.シャンソン ピアフ 「いけない水夫」
        3.忘れられたフランス人  ラスパイユ 
        4.あとがき

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1.Metro parisien - ligne 1, Reuilly-Diderot
  http://www.ratp.fr/

 リヨン駅の次ぎの駅がルイリ=ディドロ駅Reuilly-Diderotである。駅名は単純に
rue de ReuillyとBoulevard Diderotが交錯する場所だからである。

 rue de Reuillyはメロヴァンジャン(merovingiens、5世紀末から751年にかけての
フランス最初の王朝)の王たちが住居としたルイリ城に至る道ということで名付けら
れた。パリでも1970年代に再開発された地区である。

 Denis Diderot(1713-1784)については本誌150号(2002年11月25日)にダラン
ベールd'Alembertの項で若干触れた。Diderotの自由主義哲学論文は同時代殆ど知ら
れていない。発見されたのは20世紀後半である。しかし、百科辞典編纂者としてつと
に有名であった。20年以上に亘る仕事で、28巻(内11巻が図版)が完成したのは1772
年のことである。この間、王室の検閲、教会から禁書扱いをうけるなど困難を極め
た。本人は戯曲を書いた方がいいといったそうだが、生涯を百科辞典完成に費やし
た。しかし、百科辞典といっても今日の百科辞典ではない。それは中世からの完全な
脱却、近代の到来を意味していた。芸術、科学、職業の解放である。フランス革命の
前夜の仕事である。 Diderotによるlibertinとしての哲学の実践の毎日であった。今
日で考えると、重要な示唆を含んでいる。中世とは違うやり方で、知的財産権の名で
僕たちの時代は、人類の共有の財産であるべき知識をも一部の国が、クラスが、人々
が独占しようとする方向に進んでいるからである。
http://www.sigu7.jussieu.fr/diderot/

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2.Le mauvais matelot
    Paroles: Raymond Asso. Musique: P. Dreyfus   1936

Dans le port de Marseille,  マルセイユの港に、
Y a un joli bateau.      素敵な船が浮んでいる。
Dans le port de Marseille,  マルセイユの港に、
Y a un joli bateau.      素敵な船が浮んでいる。
Dans l'vent, sur l'eau,    風の中に、海の上に、
Dans la cale du navire,    船倉の中に、
Loin du ciel, tout au fond,  空の彼方、ずっと奥に、
Dans la cale du navire,    船倉の中に、
Y a un mauvais garcon.    悪い男がいる。
Oh oh oh tout pres de l'eau oh oh, オ オ 海の直ぐそばに オ オ、
La fille du capitaine     キャピテンの娘さんが
Est descendue le voir.    その男を見におりてきた。
La fille du capitaine     キャピテンの娘さんが
Est descendue le voir.    その男を見におりてきた。
"Comme il fait noir,     「なんて暗いところなの、
Mon coeur a de la peine.   こころが痛むわ。
Dis-moi joli garcon,     ねぇ美男子さん
Pourquoi, charge de chaines,  どうして、鎖に繋がれて、
Es-tu la, tout au fond ?   そんなところにいるの、こんな奥底に?
Oh oh oh si pres de l'eau oh oh oh" オ オ 海の直ぐそばに オ オ」
Je suis fils de la terre.   俺は大地の子。
Mon pere est laboureur.    父は百姓。
Je suis fils de la terre   俺は大地の子。
Et la mer me fait peur,    海が怖い、
Oh oh oui bien peur.     オ オ 正に怖い。
Je suis dans la Marine    俺は水兵
Sans l'avoir demande.     頼みもしないのに。
Je suis dans la Marine    俺は水兵
Et ne sais pas nager.      泳げない。
Oh oh oh j'ai peur de l'eau oh oh. オ オ オ 海が怖い オ オ。
Je veux revoir ma mere      母に会いたい
Et les beaux champs de ble.  美しい麦畑を見たい。
Je veux revoir ma mere    母に会いたい
Et les beaux champs de ble  美しい麦畑を見たい
Blonds et dores.       黄金色に輝く麦畑を。
Faites tomber mes chaines.  鎖を外しておくれ。
Je vous epouserai.      君の婿になろう。
Faites tomber mes chaines.  鎖を外しておくれ。
Je vous emmenerai       君の婿になろう。
Oh oh oh bien loin de l'eau oh oh. オ オ オ 海から遥か遠くに オ オ。
Dans la cale du navire,    船倉で、
Le capitaine en pleurs,    キャピテンが泣く、
Dans la cale du navire,    船倉で、
Le capitaine en pleurs,    キャピテンが泣く、
Oh quel malheur !       なんたる不幸!
Il m'a vole ma fille,     あいつが俺の娘を盗みよった。
M'a dechire le coeur.     あいつが俺の心を引き裂いた。
Il m'a vole ma fille     あいつが俺の娘を奪いよった。
Et vole mon honneur,     あいつが俺を汚して、
Oh oh oh, vilain matelot oh oh. オ オ 破廉恥な水兵め オ オ。
Dans le port de Marseille,  マルセイユの港に、
Y a un joli bateau.      素敵な船が浮んでいる。
Dans le port de Marseille,  マルセイユの港に、
Y a un joli bateau            素敵な船が浮んでいる
Dansant sur l'eau.            海にぷかぷかと。
Y a plus de capitaine.    キャピテンはもういない。
Le capitaine est mort.    キャピテンは亡くなった。
Trop grande fut sa peine,   痛みが大きすぎて
A saute par-dessus bord.   船べりから跳びこんだ。
Oh oh il dort dans l'eau oh oh.オ オ キャピテンは海の中で眠っている オ 


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3.Francois Vincent Raspail 1794 - 1878
  http://www.cosmovisions.com/Raspail.htm

 ラスパイユの『保健大全Manutel annuaire de la Sante』は1845年年に刊行された
が、100年にわたるベストセラーになった。『家庭の医学』といったところ。ラスパ
イユは医学の大衆化を推進した。

 しかし、F.-V. Raspailは政治家でもあった。1830年及び1848年の革命に参加して
いるし、1848年12月には大統領候補として立ったが、36.000票しかとれなかった。非
常に確信に満ちた共和主義社で、何回も投獄され、ベルギーに亡命もした。1877年、
ついに議員となった。

 パリのラスパイユ通りにはアリアンス・フランセーズAlliance Francaiseがある。
僕はここで数ヵ月フランス語を習ったことがある。古い校舎であったが、2001年に改
築されたらしい。学部の授業に間に合わせるために速習コースをとったが、小説家を
志す若い先生のクラスだった。この先生がゲイだというので、ドイツから来た青年が
大騒ぎしたが、懇親会の席に先生が相当な美人女性を伴って現れて、この件はうやむ
やになった。いずれにせよ、先生のお蔭で長足の進歩をしたと思う。当時のノートを
まだもっているが、ノートには窓から見える景色のクロッキーしかない。不思議だ。
クラスが終了した日、ムドンにあった僕の下宿で皆と打ち上げの飲み会をした。赤毛
のアイルランド人、麗しいメヒカーナ、Woody Allenの映画が大好きだったドイツ人
等々6〜7人が騒いだ。まもなく僕はフランス人の大家から追い出されて、大学都市の
モナコ館に移ることになった。
 
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4.あとがき

 本誌150号の校正を行った。多少の追記、URL更新もした。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/log150.htm

 Vivianeがアレンジしてくれたのは16区に隣接するブローニュ・ビヤンクール
Boulogne-Billancourt市のホームレス支援団体である。メトロのマルセル・サンバ駅
Marcel SembatでVivaneの友人Robertが迎えてくれた。6月28日火曜日21時のことであ
る。日中は記録的に暑かったが、小雨が降る夜であった。

 Marcel Sembat(1862-1922)は社会主義者でフリーメイソンFranc-maconであっ
た。ジャーナリストでもあり、ガンベッタLeon Gambettaの新聞『フランス共和国La
Republique francaise』やユマニテL'Humaniteに記事を書いた。1893年にはパリ17区
から無所属社の会主義者として立候補し国会議員に選出された。1916年Viviani内閣
のときに建設大臣ministre des Travaux publicsになっている。

 閑話休題。サンバ駅に降り立ち、ユゴ通りAv Victor Hugoをしばらく遡ると左手に
SAMUのガレージがある。このガレージにヴォランティアたちが集まった。6〜7人であ
る。団体名はl'ordre de la Malteであったが、宗教色は特別にないようだった。
SAMUであるから救急車がたくさん駐車している。路上生活者が緊急の場合、115番に
電話すると救急車が出動し、24時間施設に「収容」してくれることは知っていた。し
かし、SAMUの下部団体ではない。現Boulogne-Billancourt市長は右派だそうだが、週
一回夜回りをするとき市がSAMUの車を出すことを許可している。従ってその日僕が
乗ったのも救急車であった。車には、食糧(ケーキ、パン等)、衣類(下着、T-シャ
ツ、ズボン等)、医薬品、毛布等が積みこまれた。数人づつ救急車に分乗して通りに
出た。

 その日僕が会ったのは28人のSDFである。夜中の2時過ぎ街を回った。
 先ず、市が建設中のホームレス用の宿泊施設のとなりのプレハブに立ち寄り、そこ
で多量に持っていたパンと熱いスープを交換する。パンは街のパン屋さんがヴォラン
ティアで提供してくれたものである。
 ホームレスの人たちは思い思いの所を塒(ねぐら)としており、市のあちこちに散
らばっていた。市営市場に一人、サンバ駅のバス停に三人、大きな地下駐車場入り口
に二人、公園に一人、教会前の広場に一人、商店街の軒下に二人といった具合であ
る。雨の日は特に寝るところを探すのに苦労するようだ。
 僕と一緒に車に乗ったのは運転してくれたDaniel外2名。みんなSDF一人一人の名
前を知っていて、だいたいどの辺りで寝ているか見当をつけていた。全く新しく面識
のないSDFは、その夜はたった一人で、アフリカはマリから来た移民の青年であっ
た。青年は、全く路頭に迷うという風で、涙ながらに境遇を訴えていた。SDFの人種
は様々であったが、多くは欧州人である。車椅子に乗っていたのは一人ジェラール
Gerardだけだったが、持病がある人が数人いて、彼らは医薬品の配布を受けていた。
僕の乗った車には医者がいなかったが、他の車に乗ったヴォランティアの中には医者
もいて、携帯電話で連絡を取りながら医療行為が必要な場合には、医者に場所を連絡
した。空家をSDFが占拠することは、合法ではないが行政がある程度許容(目をつぶ
る)していると思ったが、丁度当日、空家から排除された親子が公園の木陰に蹲(う
ずくま)っていた。
 泥棒の被害にあい脚に怪我をした高齢者アランAlainは、雨の中放って置けないの
でビヤンクール駅まで救急車で運び、地下鉄の駅の従業員に挨拶をして、ホームに翌
朝までいることを許可してもらった。重傷ともいえないが足を引きずるので、僕が肩
を貸してホームまでの階段を降りた。
 SDFの多くは不潔で異臭を放った。市の施設にシャワー設備などがないではないの
であるが、衣類の洗濯などは、東京の公園のテント生活者と違って、常時可能ではな
いようだ。バス停にいた一人は、アルコール依存症で失禁していたので、下着やパン
タロンを渡した。
 SDFの間で、またはSDFを狙った泥棒が多い。SDFは文字通り家がないから、身の回
りの僅かばかりの品々を持ち歩いている。中には身分証明書など貴重な書類も含まれ
ている。雨の中、広場のベンチで毛布を被って寝ていた元軍人SDFは、最も絶えられ
ないほどの悪臭をさせていたが、その日荷物を全て盗まれてしまったそうである。
 
 7月2日土曜日15時、こんどはVidianeと晴れて建築マスターの学位をとった
Sebastien君と再びサンバ駅に集合した。この日は晴天であった。もう一人、ヴォラ
ンティア候補の青年が加わった。バカロレア(大学入学試験)を準備中という18歳の
高校生である。Meetingの後、メトロで二つ先のポン・ド・セーヴル駅Pont de
Sevresに行った。僕が火曜日にも行った小さな公園に行くためである。火曜日夜とは
違って、8人ものSDFがベンチに座っていた(火曜日は3人)。Vivianeの活動(Les
Bancs Publics)は、物質的というよりは文化的行事にSDFたちを誘うことであり、彼
らとの会話を通して「忘れられた存在、排除された人々」ではないことを伝えること
である。

 このレポートを書いている最中、Vivianeから悪い報せのメイルが入った。9月11
日、上述した車椅子のジェラールが仲間に刺されて殺されたというのだ。しかも、
21ヶ所も刺された上、喉を切られたというから凄まじい。VivianeはGerardも、殺人
犯となったロバンRobinも良く知っている。原因は分からない。Vivianeが9月7日、
Gerardから別れた妻と海外に嫁いでいる愛娘に連絡が取りたいのでアシストして欲し
いと頼まれていた矢先の出来事であった。

 ちなみに、東京のSDFの調査を一緒にしたSebastienは現在渋谷原宿界隈で開催され
るDesign Tide展にプロトタイプ出品するために鋭意制作中である。作品には『House
Less』と名をつけた。「Agnes B」なるフランスのファッション会社がスポンサーに
なってくれた。開催期間は11月2日(水)〜11月6日(日)。展示会場は「Agnes B」
の店舗内の予定。
http://www.designtide.jp/

 唐木田健一著『1968年には何があったのか - 東大闘争私史』(批評社、2004年7
月)を読んだ。野史、外史であるが、小説的手法を用いたautobiographieであろう。
1969年1月18日の東京大学安田講堂占拠排除のため機動隊導入で東京大学闘争は終
る。

 1968年とは、世界的にみるとどのような年であったか。先ず、ベトナム戦争の只中
であった。ビアフラBiafra内戦(1967-1970)もあった。ミニ・スカートが流行り、
ヒッピーが出現した。フランスでは、mai 68(68年5月)と呼ばれる殆ど革命寸前の
社会運動があった。

 mai 68は正に5月2日のソルボンヌSorbnonneから始まった。しかし、それ以前に
Nanterre校(現在のパリ第10大学、文学部)で事件があった。3月の学生Xavier
Langlade君の逮捕である。大学は、1964年カリフォルニアはバークレー校から既に先
進国において危機をむかえていた。フランスにはフランスの、日本には日本の事情が
あった。しかし、この学生運動は、世界的な文脈で考えられなければならない。であ
るからこそ、mai 68にあっては、単なる学生、大学内の運動にとどまらず社会的な、
国民的な運動となって、大きな連帯が学生、労働者、農民、女性、知識人
intellectuelsを巻き込んで生まれたのである。

 東京大学の闘争は、東京大学の中から出られなかった。東京大学は官僚養成所であ
る。それは今も変わらない。1969年の卒業生はいない。全員留年。入学試験は実施さ
れなかった。それだけである。メディアが味方してくれなかった、大学当局が大学の
自治を機動隊導入で踏みにじったという。唐木田は、いや、主人公Kは理学部の学生
であったが、法学部の丸山真男を批判している。丸山が権力を擁護しているからであ
る。丸山が少しもその年の学生運動を理解しようとしていないからである。K a
raison.(Kが正しい)。けれども、同時に、学生たちの運動が、丸山がかって分析し
た日本の政治、日本の文化の特殊性、蛸壺文化の中に押し込められたものであったこ
とはいっていないようだ。東京大学だけが、闘争をしていたのではなかった。早稲
田、日本、明治、上智等々の関東の大学だけでなく、確かに京都、仙台、札幌等でも
学生運動は盛んだった。東京大学にも他大学の学生たちが応援に駆けつけた。しか
し、その連帯はperspectiveのない連帯ではなかったか。そして国民的なnationaleな
連帯ではなかった。

 mai 68の場合、インテリゲンチャーintellectuelsが全面的に参加した。唐木田が
敬愛するサルトルJean-Paul Satreしかり、アロンRaymond Aron、フーコMichel
Foucault、バルトRoland Barthesしかりである。mai 68自体は、高校生Gilles
Tautin君の溺死(警官隊に追われて逃げ場を失い川に飛びこみ溺死、6月7日)という
犠牲及び二人の労働者の死(6月11日)という犠牲を払って終焉した。当時の大統領
ド・ゴールはその直後議会を解散し、小泉のように選挙で大勝利をおさめた。けれど
も、結局はド・ゴールの死後、10年が経過したけれども、1981年5月、ミテラン
Francois Mitterrandが政権をとることになる。その間、そしてそれ以降現在に至る
まで多くの知識人はmai 68を忘れていない。

 ところで、mai 68、ド・ゴールは何を言ったか。「La reforme, oui; le
chienlit, non(改革OK、無秩序NO」であった。chienlitとは語源的にchier-en-lit
で上品な言葉とはいえないが、改革が必要なことはド・ゴールも充分わかっていた。
従って、mai 68以後様々な改革が試行錯誤しながら行われていった。日本では内ゲバ
を繰り返した全学連、圧力を増大させ右旋回していった権力があった。フランスで内
ゲバが全くなかったかというと、ベンサイトDaniel Bensaidから東京で聞いた話では
「ない」といっていたが、そうでもなく確かにフランス共産党PCF系がトロツキスト
や毛沢東派を学内で暴力的に襲ったという事実はあった。

 一方、哲学的にはmai 68が齎した価値観の変化は大きかった。そもそもmai 68は経
済的、政治的自由を求める戦いであった。大学の制度も変わったが、ジェンダー意
識、家族、性、労働等々、今日オンフレイMichel Onfrayがhedonismeを提唱して一線
で活躍するのも偶然ではない。知識人の存在は大きい。

 ところで、東京大学の先生たちはインテリなのかなぁ。

 僕の思うところは、東京大学は解体されるべきであった、フランスのENAも、とい
うことである。

 唐木田が書いた1968年を含めて、逆の立場で戦後の闘争史を警察庁が書いている。
http://www.npa.go.jp/kouhousi/biki2/index.htm
 特高(特別高等警察)は生きている、生き残っているの感を懐かせる。

 『國華』という雑誌があることを知った。あるいは高校時代かあるいは大学で美学
をとったときに習ったかもしれないが、全く記憶になかった。朝日新聞社が出してい
る美術雑誌である。次ぎのURLで創刊号(1889年、岡倉天心)からディジタルで見る
ことができる。現在も続いている、世界でも最も歴史ある美術雑誌だそうな。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/DM_CD/DM_CONT/KOKKA/HOME.HTM
 今は日本美術ブームらしく、伊藤若冲(じゃくちゅう)や曾我蕭白(しょうはく)
が再発見だという。若冲は尾形光琳の後、蕭白は丸山応挙と同年代でどちらも18世紀
の画家たちである。再発見といっても、たかだか50年ほど忘れられていたに過ぎな
い。
http://park5.wakwak.com/~birdy/jakuchu/index2.html (若冲)
http://www.kyohaku.go.jp/jp/tokubetsu/050412/tokubetsu.html (蕭白)
 以上は『UP』(東京大学出版会の雑誌)9月号にあった対談(辻惟雄+山下祐二)
で興味をもったことである。対談自体はいつものように馴れ合いに過ぎないが、最近
の日本美術の傾向を知るには面白かった。しかし、日本美術、西洋美術とカテゴリー
を分ける考え方は好きではない。哲学界も同じで、よく東洋哲学、西洋哲学をいう。
確かに地理的、歴史的東西の差はある。しかし、それ以前に美術は美術、哲学は哲学
であって、東西の優劣ではない。普遍性を求めてから、それぞれの支流を語るのが良
い。
 
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