メルマガ:週刊フランスのWEB
タイトル:hebdofrance 12-09-2005  2005/09/13


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                                    Davide Yoshi TANABE
                                         vous presente

              ≪週刊フランスのWEB≫
                    第231号

Tokio, le 12 septembre 2005

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Index (目次)
        1.パリのメトロ ノマンクラチュール(3)コンコルド駅
        2.シャンソン ピアフ 「憐れな黒ん坊の大旅行」
        3.忘れられたフランス人  ピエール・シャロン
        4.あとがき

フランス語のサイトの文字化けは
表示>エンコード>西ヨーロッパ言語の順で選択すれば修正することができま
す。

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1.Metro parisien - ligne 1, Station Concorde
  http://www.ratp.fr/
  http://www.insecula.com/musee/M0051.html

 コンコルド駅。concordeは普通名詞で調和、融和ということで、先頃廃止になって
しまった超音速機の名前にもなった。エジプトのルクソールLouqsorから持ってきて
未だにエジプトに返還しようとしないオベリスクobelisqueが建っている広場の駅で
ある。

 この広場はもともとルイ15世広場と呼ばれた。最初に建設されたのは1775年。馬上
の国王ルイ15世の銅像がその真中にあったという。当然ながらフランス革命によって
1792年にこの銅像は破壊され、革命広場place de la Revolutionと改名された。とこ
ろが、大革命の恐怖政治la Terreur(1793年6月-1794年7月)の反省であろう、1795
年、執政官Directoire時代に平和、調和を意味するコンコルド広場place de la
Concordeとなった。19世紀に入って王制復古があるから、再び1814年にルイ15世、
1826年にはルイ16世の名を冠するが、1830年にコンコルド広場に戻って今日に至って
いる。

 サイトで建築家としてガブリエルJacques-Ange Gabriel(1698-1782)が出てきて
いるが、ガブリエルはルイ15世広場の設計をした。今日のコンコルド広場を設計した
のは、ドイツのケルン出身でフランスに帰化したイトルフJacques-Ignace HITTORFF
(1792-1867) 。パリの北駅gare du Nordもイトルフの設計である。

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2.Le grand voyage du pauvre negre
    Paroles: Raymond Asso. Musique: R.Cloerec   1937

Soleil de feu sur la mer Rouge.
Pas une vague, rien ne bouge.
Dessus la mer, un vieux cargo
Qui s'en va jusqu'a Borneo
Et, dans la soute, pleure un negre,
Un pauvre negre, un negre maigre,
Un negre maigre dont les os
Semblent vouloir trouer la peau.

紅海に照りつける太陽、波はまるでなし、何も動かない。海には、ボルネオ行きの古
い貨物船、船倉で一人の黒ん坊が泣いている、憐れな黒ん坊、痩せた黒ん坊、痩せ細
り骨と皮ばかりの黒ん坊が。

"Oh yo... Oh yo...
Monsieur Bon Dieu, c'est pas gentil.
Moi pas vouloir quitter pays.
Moi vouloir voir le grand bateau
Qui crach' du feu et march' sur l'eau
Et, sur le pont, moi j'ai dormi.
Alors bateau il est parti
Et capitaine a dit comm' ca :
"Negre au charbon il travaill'ra."
Monsieur Bon Dieu, c'est pas gentil.
Moi pas vouloir quitter pays.
Oh yo... Oh yo..."

オヨ、、、オヨ、、、神様、酷いじゃないですか。おいら、国を離れたくなかった。
大っきな船を見たかった 火を吐き海を渡る船が。甲板で、眠っちまっただよ。そし
たら船が出ちまった。船長さんがこう言った:「黒ん坊は働くんだ」。神様、酷い
じゃないですか。おいら、国を離れたくなかった。オヨ、、、オヨ、、、

Toujours plus loin autour du monde,
Le vieux cargo poursuit sa ronde.
Le monde est grand... Toujours des ports...
Toujours plus loin... Encore des ports...
Et, dans la soute, pleure un negre,
Un pauvre negre, un negre maigre,
Un negre maigre dont les os
Semblent vouloir trouer la peau.

遠くへ遠くへと世界を巡る、古い貨物船は旅を続ける。世界は広い、、、あちこちに
港が、、、より遠くに遠くに、、、また港が、、、そして船倉で一人の黒ん坊が泣い
ている、憐れな黒ん坊、痩せた黒ん坊、痩せ細り骨と皮ばかりの黒ん坊が。

"Oh yo... Oh yo...
Monsieur Bon Dieu, c'est pas gentil.
Y'en a maint'nant perdu pays.
Pays a moi, tres loin sur l'eau,
Et moi travaille au fond bateau.
Toujours ici comm' dans l'enfer,
Jamais plus voir danser la mer,
Jamais plus voir grand ciel tout bleu
Et pauvre negre malheureux.
Monsieur Bon Dieu, c'est pas gentil,
Moi pas vouloir quitter pays.
Oh yo... Oh yo..."

「オヨ、、、オヨ、、、神様、ひどいじゃないですか。国を失っちまった。おいらの
国を、海の彼方に、そいでおいら船底で働いている。ずっとここでまるで地獄にいる
ように、波打つ海をもはや見ることもなく、真っ青な大空を見ることもなく、憐れな
黒ん坊。神様、酷いじゃないですか、おいら、国を離れたくなかった。オヨ、、、オ
ヨ、、、」

Au bout du ciel, sur la mer calme,
Dans la nuit claire, il voit des palmes,
Alors il crie : "C'est mon pays !"
Et dans la mer il a bondi
Et dans la vague chante un negre,
Un pauvre negre, un negre maigre,
Un negre maigre dont les os
Semblent vouloir trouer la peau.

空の果て、静かな海、月の明るい夜に、椰子の木々が見えると、男は叫ぶ:「おいら
の国だ!そして海の中に跳び波間に黒ん坊が唄う、痩せ細り骨と皮ばかりの黒ん坊が

Oh yo... Oh yo...
Monsieur Bon Dieu, toi bien gentil,
Ramener moi dans mon pays.
Mais viens Bon Dieu... Viens mon secours,
Moi pas pouvoir nager toujours.
Pays trop loin pour arriver
Et pauvre negre fatigue.
Ca y est... Fini !... Monsieur Bon Dieu !...
Adieu pays... Tout l'monde adieu...
Monsieur Bon Dieu, c'est pas gentil.
Moi pas vouloir quitter pays.
Oh yo... Oh yo...
オヨ、、、オヨ、、、神様、ありがとう、おいらの国まで連れていってくれ。神様、
来ておくれ、、、おいらを助けに、おいら泳げないんだから。国は遠くて辿りつけず
 憐れな黒ん坊は疲れる。嗚呼、、、お仕舞いだ!神様!国よ さらば、、、皆さん
よ さらば、、、神様、酷いじゃないですか。おいら、国を離れたくなかった。オ
ヨ、、、オヨ、、、」

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3.Pierre Charron 1541-1603
  http://gallica.bnf.fr/themes/PhiXVI7.htm

 上智の葉狩隆夫くらいしかシャロンを研究した人が日本にはいないようだ。モン
テーニュなり、フランス近代思想史の導入部では、しかし、シャロンは重要な哲学者
である。

 シャロンは弁護士を職業としていたが、法律学から神学に転じて宗教者になった。
主著には『智慧についてDe la sagesse』(1601年)があるが、邦訳はみあたらな
い。次ぎのサイトGaliicaに全文がある。
http://visualiseur.bnf.fr/CadresFenetre?O=NUMM-87877&M=tdm&Y=Texte
 道徳家だったかもしれないが、人間性探求者といういみでモンテーニュやパスカル
と並びmoralisteである。しかし、シャロンは道徳を宗教から切り離した。政教分離
laiciteの根源がここにある。上記の作品では殆ど宗教に触れてさえいない。17世紀
の読者は本著を通してモンテーニュを理解したといわれる。自由思想家libertinとい
えよう。

 17世紀といえば、今年のカン市民大学Universite populaire de Caenの哲学講義
(オンフレイMichel Onfray)のテーマは、『un autre grand siecle』であり、17世
紀バロック自由思想家たちが語られている。シャロンはそのトップに出てくる。オン
フレイの講義、幸いなことに全講義(7月25日〜8月26日)をFrance Cultureのアーカ
イヴ・サイトで聴くことが出来る。
http://www.radiofrance.fr/chaines/france-culture2/ete2005/onfray/archives.ph
p
 とても面白い。早口でオンフレイが55分間まくしたてるが、歯切れが良い。特に毎
週金曜日のQ&Aは痛快である。珠玉の番組である。

 哲学は汎価値valeur universelleを持っていると思うが、日本、また東洋世界をど
う解釈し、分析、批判していけるかは、日本の哲学者の役割である。カントやメルロ
・ポンティ、フーコを翻訳、コピーしていても何も出てこない。
 
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4.あとがき

 本誌のホームページのアクセス数が20.000回を越した。到達するのに5年間かかっ
ている。定期的に読まれているというより、最近は検索サイト特にGoogleを通じて
キーワード検索にヒットしてアクセスされているようである。

 目取真俊(めどるま しゅん)の小説『水滴』、『風音』、『魂込め(まぶいぐ
み)』及び評論『沖縄「戦後」ゼロ年』(NHK出版、2005年)を読んだ。小説の方
は、沖縄的というか一種神秘的な怪奇小説である。奇病、風葬、ヤドカリの寄生がそ
れぞれ主題を彩る。この3作品に共通しているのは、沖縄戦の記憶である。沖縄語は
慣れない所為もあって読みにくい。小説の構成は上手い。しかし、解決はtres
moralisteで平凡である。沖縄戦を風化させず、その記憶を常に新たにすることは必
要である。僕たち自身の問題として常に認識されねばならない。その意味で評論『沖
縄「戦後」ゼロ年』は、歯切れがよく沖縄問題を直視している。単なる大和人批判で
はない。僕は沖縄独立を本誌で幾度も主張しているが、これは沖縄を切れ、沖縄を
delaisser(放置)しろということではない。沖縄の独立がないかぎり、日本と従属
的関係にある限り、米軍基地問題も、失業問題も、戦争責任も解決しない。地方自治
で済まされる性質の問題ではないのである。目取真はもっとラディカルになってもい
い。応援するよ。

 川人貞史(かわと さだふみ)著『日本の政党政治 1890-1937』(東京大学出版
会、1992年)を読む。川人は現在現代政治分析担当東北大学大学院法学研究科教授で
ある。本書を執筆した当時は北大教授。但し上梓した月に東北大学に移っている。今
年9月、まもなく 『日本の国会制度と政党政治』(東京大学出版会)が出るようだ
が、11日の選挙には間に合わなかった。
 一般に戦前の帝国議会は、僕たちの脳裏から忘れ去られている。議会制民主主義が
現行憲法で突如として生まれたように理解されている。しかし、そんなに簡単なこと
ではないだろうという個人的な疑問から川人の本を手にとった。戦前の議会史を扱っ
た本が他に皆無でもない。だが、本腰を入れて戦前の選挙の数量分析までをした研究
は少ないであろう。何しろ、データ・ベイス作りだけで6年を費やしているのだ。
 本著の分析手法は、Nelson Polsby, ≪ The Institutionalization of U.S. House
of Representatives ≫(American Political Science Review, vol. LXII, n°1,
mars 1968)に立脚しているようだ。ポルスビーはUCバークレー校の政治学教授、今
年70歳の御大。米国のサイトを見ると、選挙のたびに登場してくる先生である。分析
の雛型があって、それにそうことは一つの方法である。それに異存はない。読み始め
たばかりで余り文句はいいたくないが、小さな結論や推論をa prioriに導いてしまっ
ている傾向があるように感じた。読後短い評論を本誌に載せよう。

 パリ及びジュネーヴで現地のATMからVisaカードを使って現金を引き出した。暗証
番号を入力することでどの銀行のATMも正常に作動した。Credit Lyonnais、Societe
Generale、UBSなどである。僕のCredit Cardは日本動物愛護協会カードにもなってい
るが、そのためOrico(オリエント・コーポレーション)が僕の第一の契約者になっ
ている。本を買ったり、レストランの支払いなどはcrdit consoであるので、特に分
割払いを請求しなければ、翌月一括して支払うことになる。ところが、海外で引出し
た現金をcredit revolvingとしてくれるのはいいが、清算の段になってOricoは自動
的に割賦払いinstallement>acompteまたはfacilitesとしてしまうのである。そして
元本pricipalに年利27,6%という利子を加える。800ユーロを引出したとすると3万円
近くが利子の払いだ。実際には、元本が月々減少していくのだから、総元本に対して
は最終利子率は14%程度になる。しかし、これでも預金金利に比してとんでもない数
字である。帰国後直ちに割賦を停止する予定だったが、遅れたため余計な金利を払っ
てしまった。しかし、為替レートは、カードでキャッシングした方が、パリ空港で現
金(日本円)からユーロを買うよりも遥かに良かった。為替はVisa国際センター(多
分在スイス)が組むから、ほぼ実勢レートになる。ただ、今回、果たして日本のVisa
カードが使えるかどうか心配であったので空港でユーロを買ってしまったのである。
これはパリの事情で、スイスであれば、ジュネーヴやチューリッヒの空港の為替レー
トは市中の銀行よりも実勢にこよなく近い。手数料もとらない。為替には売りと買い
でスプレッドがあるのだから銀行が更に手数料を取るのは納得できない。
 ところで、割賦をキャンセルするためOrico世田谷支店に先ず電話して、払込み金
額を計算してもらった。それをもとに銀行で現金をおろして支店窓口にいったら、窓
口での計算では655円少ない計算になった。不思議である。僕としては655円安くなっ
たのだから構わないが、これが億単位の取引だったらどうするのだろう、この会社。
いずれコンピュータが計算するするのだろうが、インプットを間違えれば当然計算結
果も違ってくる。説明をもとめたところ責任者らしき人物が出てきたが、まるで計算
根拠を示すことが出来なかった。情けない。Oricoは銀行ではないが、金融会社だろ
!もっとも日本の銀行は上から下まで酷い。スイスは上があくどい商売もやるが、窓
口は素晴らしい。田舎の村の郵便局員でもたちどころに為替を組み金利計算をするこ
とが出来る。勿論、フランスはその点お話にならないこと日本と同様である。

 面倒なことがあった。日本の普通免許をスイスの免許から書換えたことは既に書い
た。車の運転を仕事上することもあろうかと思い、また個人的にはバイクに乗りた
かったからである。僕が尊敬した哲学者市井三郎は45歳になってバイクの運転を始め
た。それを知ったのは僕がまだ学生の頃。「へぇ、オジさん、やるなぁ」と感心し
た。学生のころ悪辣な自動車学校の教官連中に反発して、ついに日本で免許を取るこ
とをあきらめた。免許は北アフリカで取得、その後スイスで15年運転したのは車で
あった。無事故である。バイクはまるで運転する機会を持たなかった。
 さて、日本で普通免許で乗れるバイクは、あの小さな原付といわれる乗り物であ
る。大型バイクの前に先ずは手始めに原付と考えた。オークションでとても便利なバ
イクが安く手に入った。35.0000円。譲ってくれたのは上馬(世田谷)のバイク専門
店。若いご主人もtres sympaだった。プレスカブである。あの新聞屋さんが、早朝
トゥルルルとエンジン音を響かせて乗っている小さなバイクだ。
 8月11日の深夜、下北沢(世田谷)からの帰り道、警察に止められた。ヘルメット
を被っていなかったのである。自転車感覚で乗っていた所為で、これは僕が悪い。ヘ
ルメットをしないで大怪我をするのは僕であり、自己責任の範囲であるが、たまたま
そういう僕と事故を起こし怪我をさせた運転者は迷惑だろう。だからヘルメットをし
なければならないのには納得する。警官が「飲んでますか」と聴くので正直に「多少
は」と答えたのが運の尽きである。近くの経堂駅脇の交番に案内されてアルコール・
テストを受けた。酒気帯び運転と判断され「赤紙」をいただいた。
 行政処分は免停30日である。ところが、9月8日、調布の運転試験場に出頭して講習
を受けたら24時間に短縮された。つまり9日から運転再会OKという。13.800円の講習
料金を払って講習を受け、さらに簡単なテストを受けて成績が優(42点満点36点以
上)なら召還された日だけ免許停止で済むのである。僕が受けたクラスは48名全員が
優をとった。さすが受験王国ニッポン。直線の授業でテストの回答を種明かししてい
るのだから、当然といえば当然ではあるが流石である。僕がスペインで食品取扱免許
試験をとったときは、やさしい試験だが全員優ではなかった。講習会の売上を計算す
ると毎年1クラスだけでも2億円である。ボロイ商売ではないか。講習のお陰で、実地
教習があり右ハンドル車に日本で初めて乗るという経験をさせてもらったが、講習の
意味は全くない。何故誰も文句を言わないのだろう。moutonsとしか云い様がない。

 刑事処分の方である。酒気帯び運転は刑事処分対象となる。懲役刑と罰金刑があ
る。罰金刑も前科となる。従って裁判が必要である。実際は即決裁判が行われる。僕
の場合は8月31日に警視庁交通捜査課墨田分室に出頭した。祝田門の筋向い、日比谷
公園に面した工事中の仮庁舎であった。同じ建物に関係検察庁および裁判所がある。
警察職員に続いて検事との面接(尋問)がある。検事とは様々話合ったが、酒気帯び
の事実については争わなかった。最後に即決裁判を待ち罰金刑が言渡されたが、裁判
官の姿は見えず窓口で先の「赤紙」の裏に結果通知書として金額が示されただけであ
る。
 支払い窓口に行き、「今日は払わない、払えない」と通告したら、裁判所職員が部
屋から出て来て僕の横に親しげに座り、「何時なら払えるか」というから、「不服申
立期限である14日以内に払うかもしれない」と回答すると困ったような顔をして「先
ず、9月7日までに払うと云ってください」という。ま、職員の方をイライラさせても
つまらないので「では一応7日までに」と答えた。数日後に7日期限の督促状が郵便で
家に届いた。これは今、14日に電話で延長申し込みをした。もう一度14日期限の督促
状が先週来た。
 不服申立を簡易裁判所にしてもいいが、事実を争わないので、法律の不備または量
刑について争わねばならない。2002年改正道交法の規定の最低限の罰金100.000円を
量刑されているのでそれは難しい。呼気1リットル中のアルコール量を一律に規定
し、運転者の個人的アルコールによる酩酊度を勘案しないのは、つまり、飲んでいて
も白線上を真っ直ぐに歩け、数10メートル先の看板の文字がはっきりと読める状態
(実際警官の要請で、このテストをしてみて酩酊状態とはいえないことは明かであっ
た)を考慮しないのは法律の不備である、と主張しても無理がありそうだ。検事によ
れば、不服申立をして裁判をして敗訴すれば裁判費用がかかる。罰金と同じ位かかる
だろうというのだ。弁護士を頼まず、僕が自分で法廷で弁護するとしてもである。行
政法の教授をしている友人は「たいした費用はかからない筈」とおっしゃったが、お
金をこれ以上かけたくない。外国人の刑事事件で、通訳費用を被告人に支払うよう命
じた判決が、国際人権規約違反となって、結局現在は通訳費用は裁判所が全額負担し
ている。さらに現実には裁判費用についても、外国人の場合訴訟費用(上告などして
も)は国がもっている。が、僕は日本人なので裁判費用を負担させられる可能性が大
きい。結局罰金刑は確定にさせざるをえないようだ。
 では、罰金刑を払わないとどうなるか。刑法18条には次ぎの規定がある。
「罰金を完納することができない者は、一日以上二年以下の期間、労役場に留置す
る」また同条第4項に「罰金又は科料の言渡しをするときは、その言渡しとともに、
罰金又は科料を完納することができない場合における留置の期間を定めて言い渡さな
ければならない」とあるから即決裁判結果通知書にも「これを完納することが出来な
いときは金5.000円を1日に換算した期間被告人を労役場に留置する」とわざわざ明記
してくれている。ところが、先の国際人権規約、これを日本政府は1979年6月21日批
准した。経済的社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)Pacte
international relatif aux droits economiques, sociaux et culturels 及び市民
的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)Pacte international relatif aux
droits civils et politiquesの両方である。 1966年に採択され、76年に発効した国
際規約であるから日本は決して批准が早くはないが、スイスなどに比べればかなり早
い。スイスは1992年に加入。B条約11条に「何人も、契約上の義務を履行することが
できないことのみを理由として拘禁されない、Nul ne peut etre emprisonne pour
la seule raison qu'il n'est pas en mesure d'executer une obligation
contractuelle」とある。罰金を支払わないことが、契約上の義務の不履行だとすれ
ば、「労役場に留置する」とは拘禁に当たるのではないか。罰金の場合留置する必要
はなく、労役場に通えば良いのではないか。この条項が無理としても刑法18条がB規
約に抵触する条分は見つかりそうである。
 次ぎに、監獄法をみてみる。この古めかしい法律には多々問題がある。同法8条に
「労役場及ビ監置場ハ之ヲ監獄ニ附設ス」とあるが、労役場とは実は監獄そのもので
ある。従って、労役場で労働するとは懲役と同質となっているのであり異常である。
また第10条「本法ハ陸海軍ニ属スル監獄ニ之ヲ適用セス」とは?自衛隊に軍法会議が
あるということか。ま、今回に関係ないのでそれはそれとしておくが、監獄内の規律
に従わない、即ち看守などに反抗的態度をとれば第60条が適用される。その中に、
「八 運動ノ五日以内ノ停止 九 作業賞与金計算高ノ一部又ハ全部減削 十 七日以内
ノ減食」がある。これはあきらかにB規約第10条1項「自由を奪われたすべての者は、
人道的にかつ人間の固有の尊厳を尊重して、取り扱われる、Toute personne privee
de sa liberte est traitee avec humanite et avec le respect de la dignite
inherente a la personne humaine.」に違反しよう。しかし、大西巨人の小説『神聖
喜劇』は軍隊内部での抵抗を描いていたが、僕がその手をつかうと、下手すれば出所
出来なくなる。
http://www.ohchr.org/french/law/ccpr.htm B規約前文(フランス語)

 監獄に行くのも貴重な経験かなと思うが、僕の性格では出られなくなる虞がある。
考えものだ。罰金を払うにしくはないのか。逡巡するなぁ。検事にいわせると、日当
10.000円以上の時代に態々労役場に行く馬鹿はいないのだそうだが、、、。

 気をとりなおしてパリのホームレスのことを書こうとするが、長くなるので次回と
する。一言だけ云っておくなら、パリのホームレスは総体的に不潔で汚く、ダンボー
ルの宿もなければブルー・テントもない路上生活者であるが、地域住民の中に溶け込
んでおり、決して周りの無関心や侮蔑の中で日本のように孤立しているわけではな
い。ホームレスも油断をすると窃盗の犠牲者になる冷酷な社会の中に生きているとい
うことである。

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発行者:田邊 好美(ヨシハル)
    〒 157-0073 東京都世田谷区
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