メルマガ:週刊フランスのWEB
タイトル:hebdofrance 01-08-2005  2005/08/01


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                                    Davide Yoshi TANABE
                                         vous presente

              ≪週刊フランスのWEB≫
                    第229号

Tokio, le 1er aout 2005

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Index (目次)
        1.ピティエ=サルペトリエール病院 パリ第6大学
        2.パリのメトロ ノマンクラチュール(2)
        3.シャンソン ピアフ 「憲兵隊の旗」
        4.あとがき

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す。

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1.CHU-PS, et Hopital de la Pitie - Salpetriere
  http://www.chups.jussieu.fr/

 パリ大学の医学部及び総合病院が、その名も病院大通りBoulevard de l'Hopitalに
ある。メトロ駅はオステルリツGare d'Austerlitz。5区である。

 歴史的にはルイ14世が1656年に建てたことになっている。Salpetriereだから工廠
(こうしょう)があったのだろうが、ここがパリの収容所になった。収容されるのは
誰か? フーコMichel Foucaultの『狂気の歴史Histoire de la folie』によれば、浮
浪者vagabonds、失業者、無為徒食の者oisifs、乞食、貧乏人、放浪する気狂いfous
errantsたちである。病院とはいうものの治療をするところではなかった。社会から
排除するために当時40.000人の物乞いがパリにいたといわれるが、その一部を収容し
たのである。だから僕は「収容所」という言葉をつかった。もっともナチのようにガ
ス室があったわけではないが。

 フーコはこの病院で亡くなったが、勿論1984年6月25日のサルペトリエール大学病
院は、ヨーロッパにおける現代医学の中心的存在となっている。伝統的に精神医学が
強いけれども、外科等々他の医学分野を網羅する総合病院である。

 しかし、僕は日本において先日、中世のHopital general(Hopital de la Pitie -
Salpetriereのこと)のと同じ考えをもった大学人に出会った。7月29日(金)於東京
工業大学建築学科大学院卒業試験の会場である。院生はS君。僕もjuryとして参加し
たパリ大学大学院では、見事優tres bien(この評価のためには5人のjury全一致が必
要)を取得したS君が、同じテーマで東工大大学院の卒業試験に臨んだのである。
テーマは「ホームレスのための住居設計」。建築学が一部のクラスのための住居や事
務所、施設を研究するものではないとの哲学から出発して、現場の調査を重ねて、移
動式の軽量にして安価な住宅設計をした。パリでは30分以上かけて発表をしたが、東
京では持ち時間が8分、教授たちの質問が4分、合計12分である。東工大大学院建築学
科のホームページでは「Architectureというのは、文字通りテクノロジー全般を総括
するという意味であって、広い視野と深い洞察力とたくましい想像力の育成が、諸君
の上に期待されている」とあるが、これはどうもお題目にすぎないようだ。4分の質
問時間のときに、いくつか質問だが出たが、「S君のテーマは、ノーマルな人々では
なく、いわゆるホームレスを助長するのでゃないか、第一建築設計ではなくホームレ
スに関するレポートじゃないか」というのが二人の教授からあった。先ず「ホームレ
スをノーマルな人間ではない」という考え方そのものに、S君は切りこんだのであ
る。代々木公園を例として住居だけでなく住環境も提案設計しているが、代々木公園
だけに適用できる設計ではなく、ひとつの汎用的設計である。「ノーマルでない
人々」と発言した教授を僕は睨み付けたが、17世紀のフランスの支配階級の考えは、
その後の上記Hopital de la Pitie - Salpetriereの失敗をみれば誤りであったこと
は明かである。東工大の教授連中の愚昧さには呆れてものがいえない。

 同日の他の院生たちの発表をみると、日本の院生たちの発表は極めて技術的である
が、何ら哲学がなく、ちょいとひねれば僕でもできそうな発表ばかりであった。程度
が低い。技術分析的で流行を追うような態度は僕から見れば失格である。中国からの
留学生の発表は面白かったが、教授連は「そりゃ、社会学じゃないか」という感想。
どうも学問とは何かを問うたこともない、技術屋が教授をしている大学だ。まもなく
停年になるらしいが、これらの連中がいなくなっても希望がもてそうもない大学であ
る。それは学内を試験会場に入る前に小一時間散策してみて感じた雰囲気でもある。
http://www.arch.titech.ac.jp/
 S君には、不合格になったらクレームするシステムがあるはずだから是非学内で提
訴するように伝えたが、果たしてどうなることやら。

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2.Metro parisien - ligne
   http://www.ratp.fr/

  George V駅
  ジョルジュ・サンクの名前は直接的にはシャンゼリゼAvenue des
Champs-Elyseesから南のアンリ・デュナン広場Avenue Henry Dunantに至るAvenue
George Vから来ている。

 アンリ・デュナンは赤十字の創立者、スイス人である(1828-1910)。ナポレオン3
世がピエモンテ連合軍と共にオーストリア軍に対して戦ったソルフェリーノBataille
de Solferino(1859年、イタリア)の負傷者・犠牲者を目の当たりにして赤十字を設
立することを提唱した。
http://www.memo.fr/article.asp?ID=PER_CON_070

 George V(1865-1936)は英国王である。ジョルジュと読むがGeorgesとは書かず、
英語名ジョージGeorgeと綴っている。在位期間は1910年から他界した1936年まで。皇
后は豪華客船の名前にもなっているQueen Mary。第1次世界大戦では、ドイツと戦う
部隊及び病院を頻繁に見舞った。1918年7月14日という記念日に旧アルマAvenue de
l'Armaを改めAvenue George Vとしているから、いわば連合軍戦勝を記念するためで
あろう。シンプソン夫人とフランスに渡ってしまったエドワード8世Edward VIIIは
George Vの王位継承者。エドワード王は10ヶ月余りで退位、ジョージ6世、エリザベ
ス女王と続く。
http://www.royal.gov.uk/output/Page139.asp

 Champs-Elysees Clemenceau駅
 クレマンソGeorges Clemenceau(1541-1929)は、医者として出発するが、共和主
義者として投獄されたこともある第3共和制下の上院議員である。自ら新聞を創立す
るなどジャーナリスムでも活躍した。「虎Le Tigre」の綽名を持ち、極めて演説に長
けた人物であった。フランスで初めての政党らしい政党「急進共和党」を設立(1901
年)。晩年65歳で首相となり、第3共和制で最も長く政権を維持した(1906-1909)。
1917年、第1次世界大戦に際しドイツ嫌いのナショナリストとして再び首相に就任。
ヴェルサイユ講和条約締結の折り、ドイツに屈辱的条件を呑ませた。1918年、アカデ
ミー・フランセーズ会員。
http://www.academie-francaise.fr/immortels/base/academiciens/fiche.asp?param
=531
 ナポレオン、ド・ドールは軍人だが、クレマンソはcivilの英雄ということであ
る。

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3.Edith Piaf (1937)
  Le fanion de la legion
  Paroles: Raymond Asso. Musique: Marguerite Monnot   1936
  
Tout en bas, c'est le Bled immense
Que domine un petit fortin.
Sur la plaine, c'est le silence,
Et la-haut, dans le clair matin,
Une silhouette aux quatre vents jette
Les notes aigues d'un clairon,
Mais, un coup de feu lui repond.

ずっと下の方に、小さな砦が見下ろす大きな郷がある 。草原の静けさ、上では、
早朝、影法師が四方八方に ラッパが鋭く鳴るも、銃の一撃が応える。

Ah la la la, la belle histoire.
Y a trente gars dans le bastion,
Torse nu, revant de bagarres,
Ils ont du vin dans leurs bidons,
Des vivres et des munitions.
Ah la la la, la belle histoire.
La-haut sur les murs du bastion,
Dans le soleil plane la gloire
Et dans le vent claque un fanion.
C'est le fanion de la legion !

アラララ、なんて物語だ。砦には30人の兵が、上半身裸、戦いを夢見て、食糧と弾薬
 水筒にはワインもっている。アラララ、なんて物語だ。砦の壁の上には、太陽に栄
光がかがやき、風に旗がひらめく。憲兵隊の旗だ!

Les "salopards" tiennent la plaine,
La-haut, dans le petit fortin.
Depuis une longue semaine,
La mort en prend chaque matin.
La soif et la fievre
Dessechent les levres.
A tous les appels de clairon,
C'est la mitraille qui repond.

「畜生ども」が麓を支配し、上は、小さな砦が。一週間も前から、毎朝死がやってく
る。渇きと熱が唇を乾かす。ラッパが鳴るたび、機関銃が応える。

Ah la la la, la belle histoire,
Ils restent vingt dans le bastion,
Le torse nu, couverts de gloire,
Ils n'ont plus d'eau dans leurs bidons
Et presque plus de munitions.
Ah la la la, la belle histoire,
Claquant au vent sur le bastion
Et troue comme une ecumoire,
Il y a toujours le fanion,
Le beau fanion de la legion !

アラララ、なんて物語だ、砦に20人が残っている、上半身裸、栄光につつまれ、水筒
にはもう水がなく 弾薬も殆どない。アラララ、なんて物語だ、砦をふきぬける風に
ひらめき、蜂の巣のように穴だらけにされて、旗が、憲兵隊の旗が!

Comme la nuit couvre la plaine,
Les "salopards", vers le fortin
Se sont glisses comme des hyenes
Ils ont lutte jusqu'au matin :
Hurlements de rage,
Corps a corps sauvages,
Les chiens ont eu peur des lions.
Ils n'ont pas pris la position.

平原に夜の帳がおりて、「畜生ども」が、砦の方に ハイエナのように忍び寄った 
朝まで戦った:憤怒のうめき、荒々しい肉体のぶつかりあい、犬どもは獅子を恐れ
た。「畜生ども」は陣地をとれなかった。

Ah la la la, la belle histoire,
Ils restent trois dans le bastion,
Le torse nu, couverts de gloire,
Sanglants, meurtris et en haillons,
Sans eau ni pain, ni munitions.
Ah la la la, la belle histoire,
Ils ont toujours dans le bastion
Mais ne peuvent crier victoire :
On leur a vole le fanion,
Le beau fanion de la legion !

アラララ、なんて物語だ、砦には3人しか残っていない、上半身裸、栄光につつまれ
て、血だらけ、傷だらけでぼろをまとって。水も食糧も、弾薬もない。アラララ、な
んて物語だ、砦にまだいるけれど勝鬨をあげることはできない:旗を盗られて、憲兵
隊の旗を!

Mais tout a coup, le canon tonne :
Des renforts arrivent enfin.
A l'horizon, une colonne
Se profile dans le matin
Et l'echo repete l'appel des trompettes
Qui monte vers le mamelon.
Un cri de la-haut lui repond.

だが突如、大砲が轟く:ついに援軍がやってくる。地平線に、一列縦隊が 朝くっき
りとうきあがり、丘を登ってくるトランペットの音が木魂する。上から雄叫びが応え
る。

Ah la la la, la belle histoire,
Les trois qui sont dans le bastion,
Sur leurs poitrines toutes noires
Avec du sang crenom de nom
Ont dessine de beaux fanions.
Ah la la la, la belle histoire,
Ils peuvent redresser leurs fronts
Et vers le ciel crier victoire.
Au garde-a-vous sur le bastion,
Ils gueulent "present la legion."

アラララ、なんて物語だ、砦にいる3人は、真っ黒に汚れた胸に 真っ赤な血で 旗
を描いた。アラララ、なんて物語だ、顔をあげることができる 天に勝利を叫ぶこと
ができる。砦で気をつけ、「憲兵隊であります」とどなる。

legionを外人部隊とした方が情緒があるかもしれない。が、いずれにせよ、ドイツと
の戦争の暗雲がたちこめる時代の詩である。アジアでは日本の中国侵略がもう始まっ
ていた。

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4.あとがき

 前回間に合わなかった本誌127号を校正した。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/log127.htm


 8月6日(土曜)のヨット及び花火大会参加者を募ります。ご遠慮なく会いに来てく
ださい。広島の日ですが、大いに飲み歓談したく存じます。

 パリ散策の続きを書く。
ロディエ通りからオペラ通りまで降りてきたが、そこで懐かしさも手伝って、オペラ
座にむかって一つ上りサンタンヌSainte Anne通りに寄り道をしてみた。この通りは
「日本通り」と呼ばれるくらいに日本関連の店が多い。日本食レストラン、食料品、
ビデオ、ビューティー・サロンなどがある。通りを入ってすぐ右手に東京銀行が今も
あった。現在三菱東京銀行となっているが、以前はパリで唯一窓口業務をしている日
系銀行であったのである。僕もここに口座を開いていたが、スイスの銀行とは比べも
のにならないほど、為替、小切手等銀行業務サーヴィスが悪くトラブルが絶えなかっ
た銀行である。もっとも、フランスの銀行も評判はよくない。

 サンタンヌは聖アンヌであるが、この道が出来た当時(1633年)のフランスの王妃
アンヌAnne d'Autriche(1601-1666)に因んでいる。ルイ13世の妻である。マドリッ
ド生まれ。母はオーストリアのマリガリータMarguerite、父はスペイン王フェリーペ
3世。ルイ13世とは政略結婚である。この結婚はルイ13世の母、マリ・ド・メディシ
スMarie de Medicisが決めたとされる。1615年に結婚したときアンヌもルイ13世も14
歳。ルイ13世の父親アンリ4世は1610年5月14日暗殺されている。結婚後23年にして王
位継承者後のルイ14世が生まれている。夫ルイ13世が1643年5月14日(父の暗殺と同
日)に亡くなってからアンヌもマリ同様幼いルイ14世の母として政治力を発揮してい
る。プライヴェートにおいてかなり奔放な女性だったようである。

 サンタンヌ通りを早々に戻り、オペラ通りを横切ってレシェル通りrue de
l'Echelleに移り、ルーヴル美術館に沿ったリヴォリ通りに突き当たる。右折して直
ぐの信号をセーヌ側に渡りジェネラル・ルモニエ通りAvenue du General Lemonnier
に入る。チュイルリー公園Jardin des Tuileriesを右手に、カルゼル凱旋門Arc de
Triomphe de Carrouselとルーヴル美術館を左手にしてついにセーヌ川に至る。そし
て真中までなだらかな坂になっているロワイヤル橋Pont Royalを渡ればパリの左岸で
ある。

 リヴォリ通りの名はボナパルトが1797年1月オーストリア軍とイタリアのリヴォリ
の戦いで勝利した記念として名付けられた。カルゼル凱旋門はナポレオンが1806年に
建てさせたものであるが、当初はナポレオンがヴェニスのサン・マルコ大聖堂から盗
んだ馬の彫刻をのせていたという犯罪的な門であった。これはヴェニスに返された
が、コンコルド広場にあるオベリスクはエジプトに返却されていない。

 ルモニエ将軍General Emile Lemonnier(1893-1945)は1945年3月10日、トンキン
(北ヴェトナム)で日本軍によって軍刀で断首された。この時の戦いでフランス兵が
少なくとも2650名戦死したといわれる。また3000人の軍人、19.000人の民間人が日本
軍の俘虜となった。しかも民間人3000人が拷問等により死亡したという。日本にとっ
て幸か不幸か、今日この将軍の名前及びその戦死の原因を覚えているフランス人は少
ない。またその謂れが書かれたプレートもこの通りにない。1957年3月命名された通
りである。
 もっとも、フランスのトンキンないしインドシナにおける植民地政策、さらには日
本敗戦後の第一次ヴェトナム戦争はヴェトナムの人々にとって過酷なものであったこ
とも確かである。

 ロワイヤル橋はルイ14世が私財をもって建設させ、1689年完成している。それ以前
は、1550年から渡し舟bacが両岸の交通を確保していた。といってそれまでセーヌ川
に橋がなかったわけではない。いずれも東側、即ちノートル・ダム寺院のあるシテ島
等上流に架かる橋であった。新橋と訳してしまうと奇妙に聞こえるが、ポン・ヌフ
Pont Neufはシテ島の西端にある。ロワイヤル橋が出来てから、貴族たちの館がが左
岸のサン・ジェルマン地区に進出しだした。

 ロワイヤル橋を渡ると、セーヌにそって右手がアナトル・フランス通りquai
Anatole France、左手がヴォルテール通りquai Voltaireで、真っ直ぐ進む道がバク
通りrue du Bacとなる。quai A. France、quai Voltaireはアナトル・フランス堤、
ヴォルテール堤などとすれば、荷風的情緒もでてこよう。アナトル・フランス堤にオ
ルセイ停車場を改造した印象派のオルセイ美術館がある。バク通りには骨董屋が軒を
並べている。フランスの骨董だけでなく、オリエント、インド、中国、日本の美術品
を扱っている店が多い。堤から数えて三つ目の通りが、大学通りrue de
l'Universiteで、パリ税関がその辻の左にみえる。大学通りを左に行くと、僕がフラ
ンス官僚の悪の殿堂と思っている国立行政学院ENA-Econe Nationale
d'Administrationがある。ENAを廃止せよとは既に本誌で書いた(169号-2003年4月28
日、141号-2002年9月23日)。バク通りの突き当たりの広い道がサンジェルマン大通
りである。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/log141.htm (141号、今回校正済)
http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/log169.htm (169号、今回校正済)

 サンジェルマン大通りを左に曲がり、暫らく進むと左手に有名なカフェ、フロール
Cafe de Floreとレ・ドゥ・マゴLes Deux Magotsがある。この前がサルトル=シモー
ヌ・ド・ボヴォワール広場Place Jean-Paul Sartre-Simone de Beauvoirだ。2000年4
月21日からそう呼ばれることになった。ノーベル文学賞を断ったこの実存主義哲学者
がよく出没していたカフェの前の広場なのだから相応しい命名といえよう。サルトル
は80年に、ボヴォワールは86年に他界しているからこの命名を断りようもないが、戦
後世界でフランスをここまで有名にしてくれたのだから誰も異存はあるまい。しか
し、ここにはジュネもグレコやプレヴェールもよく姿を見せていた。今日、ボヴォ
ワールの作品の方がサルトルよりも読まれているときいた。界隈にファッションの店
が多くなったようだ。哲学的カルティエも時代の波に姿を変えている。メトロ駅はサ
ン・ジェルマン・デ・プレSaint Germain des Pres。
http://www.parisrama.com/thematiques/thematique_saint_germain_paris.htm

 サン・ジェルマン教会を過ぎて、オデオンの方角に進みセーヌ通りrue de Seineを
右折する。1995年に新しく整えられたサン・ジェルマン市場を右手に、セーヌ通りの
延長であるトゥルノン通りrue de Tournonの奥に上院Senat、Palais du Luxenbourg
の建物が聳え立つ。トゥルノン(1489-1562)はサン・ジェルマン・デ・プレ修道院
院長、枢機卿。このあたり一帯が修道院の土地であった。

 上院に入ってみる。革命時代に一時監獄となったこともあるが、17世紀初めアンリ
4世の妻メディシスのマリが購入してから400年の歴史があるところである。牢獄には
先週触れたラヴォワジエ夫人の肖像画を描いたダヴィドJacques Louis David
(1748-1825)も捉えられていたことがある。ここで肖像画家Davidは獄窓から見える
風景を絵にした。彼の生涯で唯一の風景画だそうである。院内は改装、改築を重ねて
きている。受付でとめられた。電話なり書類で訪問依頼をして許可を得てからでなけ
れば入れないのだそうだ。そういえば狭い受付に人がたむろしていた。受付と一応押
し問答をしてみたが、埒があかない。諦めて外にでた。J'ai la dalle(腹が空い
た)。上院の前のヴォジラール通りrue de Vaugirardをサン・ミシェル大通りBd
Saint Michelに向う途中の、サン・ルイ高校Lycee saint Louisの角のレストランで
昼食をとることにした。ヴォジラール通りはローマ街道だそうである。日替わりメ
ニューplat de jourが11ユーロ。焼き豚porc roti froid。なんて云うことはない料
理だが、ディジョンの辛子で食せばそれなりに美味い。ワインはグラスで注文。筋向
いに日本レストランがあるが、入っていく人はいない。いまやパリのいたるところに
ある日本料理店。世界的健康指向があり、決して珍しい料理とはいえないものの、経
営は益々難しくなっていくのではないかなぁ、などと考えながらコーヒーをすすっ
た。
http://www.paris-pittoresque.com/monuments/39b.htm

 サン・ミシェル大通りに出て、セーヌに下る道を降りてメトロ10号線Cluny-La
Sorbonne駅で電車に乗って、9号線のMarcel Sembat駅にむかった。Bancs Publicsの
Vivianeとの約束の時間が来ていたからである。

 ロディエ通りから上院までの散歩が終ったわけであるが、パリの街は比較的小さい
からほぼ2時間で南北縦断が可能である。そして、パリまたヨーロッパの多くの都市
の通りの名前から、その国の中世から現代までの歴史がみえてくるようになる。

 (続く)

 7月28日調布の運転免許試験場で、スイスの免許証から日本の普通免許証に書換え
た。午後一番で窓口に行ったが、免許証発行は3時間後であった。事前に電話で問い
合わせ、全て書類を整えていったので30分位で発行になるだろうと思ったのが浅はか
であった。しかも、JAF(日本自動車連盟)が作成したスイス免許の翻訳が誤ってい
て、スイス免許取得がDuplicataが作成された1999年となっていたため、僕がスイス
でそれ以前に既に15年以上も運転していたといっても警察は1999年以降スイスに滞在
していた証拠を出せとのたまわったのである。しかし、カテゴリーB欄に1977年免許
とあったのを指摘、翻訳がおかしいと主張、やっと警察も納得した。スイス免許を所
持しているということは、スイスの居住者であったに相違ないのであるから、実に下
らない難癖をつけられたものだ。JAFの翻訳ではなく、僕が翻訳すればこんな誤りは
おこらないとも云った。JAFを使用することが書換えの条件となっている。警察とJAF
のtravail ensemble(結託)である。

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発行者:田邊 好美(ヨシハル)
    〒 157-0073 東京都世田谷区
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