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タイトル:非公式情報 第192号  2006/02/12


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今でも残る「横浜事件」の闇

By StrangeLove

横浜事件の再審判決公判が2月9日、横浜地裁で開かれ、松尾昭一裁判長は検察側の主張通り、有罪か無罪かに触れない「免訴」を言い渡した。担当判事はこの歴史的事件から逃げたと言えるだろう。

近衛文麿などの勢力を蹴落とそうとする勢力によるフレームアップ事件だとも言われている横浜事件。その端緒は1942年9月の川田寿、定子夫妻の逮捕だと言えるだろう。1930年にアメリカへ渡った寿はそこで定子と結婚、41年に帰国してから外務省と密接な関係にある世界経済調査会に就職していた。アメリカ時代、共産党関係の活動をした疑いだった。川田の交友関係から同調査会の益田直彦が1943年1月に、高橋善雄が同年5月に逮捕され、さらに満鉄関係者へ捜査の手は伸びた。

その一方、1942年9月には雑誌「改造」に掲載された論文「世界史の動向と日本」を書いた細川嘉六が検挙され、捜査の過程で発見された写真に写っていた細川の友人たちが逮捕されていく。

問題の写真は細川の著作『植民史』の刊行記念で催された会食の際に撮影されたもので、細川や満鉄関係で逮捕済みの平館利雄と西沢富夫のほか、中央公論の木村亨、元改造の相川博、改造の小野康人、東洋経済新報の加藤政治、そして満鉄の西尾忠四郎が写っていた。特高警察はこの会食を「共産党再建準備の謀議」だと「想像」したのだ。なお、再審を請求していた5名には、木村亨、平館利雄の遺族も含まれている。

結局、言論関係者を中心に60名以上が逮捕され、30名以上が有罪判決を受けた。そのうち浅石晴世、和田喜太郎、高橋義雄、田中正雄の4名が獄死、また相川博、西尾忠四郎、加藤政治、小野康人は釈放直後に獄中の心神衰弱が原因で死亡している。

事件の背後で平沼騏一郎の一派が暗躍していたとされているほか、東条英機の懐刀と言われた唐沢俊樹がシナリオを書いたとする説もある。騏一郎の兄、叔郎のひ孫が衆議院議員の平沼赳夫だ。

さて、摘発を実行した特高警察を統括していたのは内務省の警保局長だが、1932年から36年にかけて唐沢は警保局長を務め、摘発当時には内務次官だった。この時期に警保局長の職にあったのが町村金五で、1945年には警視総監に出世している。

戦後、唐沢は1955年に衆議院議員となり、岸信介内閣では法務大臣に就任した。町村は1952年に衆議院議院、59年には北海道知事、71年には参議院議院となり、第2次田中角栄内閣では自治大臣に就任している。町村金五の息子が前外務大臣の町村信孝だ。

ちなみに別の外務大臣経験者、高村正彦の父、坂彦も特高警察の人間で、やはり戦後に衆議院議員となっている。このほか、特高警察出身で、戦後になってから政治家になったり警察の幹部になった人物は多く、戦前に思想係検事のリーダーだった池田克は最高裁の判事に就任している。

こうしたことを書いていると、きりがなくなるのでやめるが、日本の底流には反民主主義的、ファシズム的な流れが存在していることを忘れてはならない。いつ、こうした暗黒海流が吹き出しても不思議ではない(兆候はある)のだが、日本のマスコミはこうした事実を真正面から取り上げようとしてこなかった。戦後、戦争責任を問われないまま逃げたという点で司法とマスコミは仲間なわけで、当然かもしれないが。
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