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タイトル:非公式情報29号  2002/11/05


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アメリカにおける議員と飛行機事故
By STRANGELOVE

 アメリカで起こった飛行機事故について第26号と第28号で伝えた。その中には、4名の議員、または元議員、つまり今年10月25日のポール・D・ウエルストン上院議員、1976年8月3日のジェリー・リットン、1991年4月5日のジョン・タワー元上院議員、そして2000年10月16日のメル・カーナハンが含まれていた。

【1970年代】
 勿論、飛行機事故で死んだアメリカの国会議員はこの4名だけではない。例えば、1972年10月16日には民主党のトーマス・ヘイル・ボッグス下院議員がアラスカを飛行中に行方不明になっている。この飛行機には、ニコラス・ジョセフ・ベギチ上院議員も同乗していた。
 ボッグス議員はジョン・F・ケネディ大統領暗殺について調査していたウォーレン委員会のメンバー。CIAと緊密な関係にあったが、暗殺調査の過程で委員会の公式見解に疑問を持つようになり、1971年にはFBIの「ゲシュタポ的」な監視活動を批判するようになっていた。
 1972年にはジョージ・ワシントン・コリンズ下院議員も飛行機事故で死亡、さらに1975年にはジェリー・ライル・ペッテイス下院議員、1976年にはリットン議員、1977年にはラルフ・フレドリック・ビールマン下院議員が航空機の墜落で死んでいる。

【1980年代〜】
 1983年9月1日にはラリー・マクドナルド下院議員が犠牲になった。搭乗していた大韓航空007便がソ連軍の戦闘機に撃墜されたのである。マクドナルド議員は「ウェスタン・ゴールズ」なる民間情報活動を開始していたが、この活動と情報機関の秘密工作との緊密な関係が当時、明るみに出つつあった。
 なお、この旅客機はアメリカから韓国へ向かう予定だったが、アンカレッジ空港を離陸した直後から航路を大幅に逸脱、警告を受けないまま、NORAD(北米大陸防空総軍司令部)が定めるバッファー・ゾーンと飛行禁止エリアを通過、カムチャツカとサハリンにあるソ連の重要軍事基地上空を飛行、最終的にサハリンの西海岸で撃墜されている。KE007便の事件にはミステリーが多いが、ここでは深入りしない。
 1989年8月13日にはラリー・スミス下院議員が飛行機事故で死亡している。当時、同議員はアメリカ陸軍特殊部隊の元隊員たちとともに、グリーン・ベレー隊員5名の死について調査中だった。この5名はCIAの麻薬工作に関係していたという。この年にはジョージ・トーマス・レランド下院議員も飛行機事故で死んでいる。
 タワー元上院議員が死亡した1991年にはヘンリー・ジョン・ハインツ上院議員も犠牲になった。そして2000年にはカーナハン議員、2002年にはウエルストン議員が飛行機事故にあっているわけである。

【ウエルストン議員】
 さて、ジョージ・W・ブッシュ大統領の天敵のひとり、ウエルストン議員の事故は「雪まじりの雨」という悪天候が原因であったと報道されている。ところが、同じ頃に近くを飛行していたパイロットは事故を引き起こすような悪天候ではなかったと証言、しかも議員のキング・エアーA-100には防氷装置がついていた。
 また、議員のパイロットは氷の付着を避けるために高度を約1万フィート(約3000メートル)から4000フィート(約1200メートル)に下降すると報告しているが、その付近では5マイル(約8キロメートル)先まで見えたという。
 議員が乗った飛行機は空港から約2マイル(3.2キロメートル)南の地点で発見されたが、その直前の高度は約400フィート(約122メートル)、速度は85ノット(時速160キロメートル弱)、また降下角度は約30度だったと伝えられている。通常、着陸時の速度は111ノット(時速200キロメートル強)で、これに比べると遅すぎるものの、失速ラインの69ノット(時速130キロメートル弱)には達していなかった。
 しつこいようだが、こうした飛行機事故が意図的に仕組まれたものだと主張しているわけではない。念のため。

---| OPC:米国の極秘テロ組織 |-------------------------------
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【内容】
第2次世界大戦後、アメリカには要人暗殺やクーデターを一手に引き受ける極秘チームが存在した。OPCである。1950年10月にCIAの中に潜り込むが、その後も破壊活動、秘密工作をOPC人脈は続けた。英国のある学者に言わせると、CIAはこうした人脈が隠れ蓑に使ってきたにすぎない。この特別レポートを読まずにアメリカの戦後史を語ることはできない。

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