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タイトル:非公式情報26号  2002/10/28


---| OPC:米国の極秘テロ組織 |-------------------------------
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特別レポート「OPC:米国の極秘テロ組織」(600円)の販売が開始されました。まもなく、カード決裁が始まります。

第2次世界大戦後、アメリカには要人暗殺やクーデターを一手に引き受ける極秘チームが存在した。OPCである。1950年10月にCIAの中に潜り込むが、その後も破壊活動、秘密工作をOPC人脈は続けた。英国のある学者に言わせると、CIAはこうした人脈が隠れ蓑に使ってきたにすぎない。この特別レポートを読まずにアメリカの戦後史を語ることはできない。

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飛行機事故に気をつけろ!
By STRANGELOVE

【ウエルストン上院議員の死】
 10月25日、アメリカ民主党の中でもジョージ・W・ブッシュ大統領の政策に最も批判的だったひとり、ポール・D・ウエルストン上院議員が飛行機事故で死亡した。同乗していた妻、娘、そして2名のパイロットに3名のスタッフも同じ運命をたどっている。議員たちが乗っていたのはキング・エアーA-100という双発のプロペラ機で、木の先端に引っかかり、墜落したようだ。
 エベレス・バージニア公営空港のアシスタント・マネージャー、ゲイリー・ウルマンによると、残骸は大きく3つの部分に分かれていた。前と後ろの塊がひとつずつ、そして黒こげになった大きな中央部分だ。こうしたことは通常なく、何が起こったのかわからないとウルマンは言っている。(10月26日付けワシントン・ポスト)
 ウエルトン議員の死はアメリカ議会におけるブッシュ政権批判派にとって大きなマイナスになると報道されているが、ここでは政治の分野に足を踏み込まず、過去の飛行機事故について振り返ってみたい。有名人が何人も死んでいるのだ。頭にすぐ浮かんでくるケースを列挙してみると、次のようになる。

【E・ハワード・ハントの妻】
 1972年12月8日、ユナイテッド航空のボーイング737がシカゴ空港に着陸する直前、墜落した。この旅客機にはE・ハワード・ハントの妻、ドロシーも乗っていた。
 ハワードはCIAのオフィサーで、1954年にグアテマラの合法左翼政権を倒したクーデターやキューバ侵攻作戦に参加していた人物だが、墜落事故当時は民主党全国委員会本部への侵入事件、つまりウォーターゲート事件に関係していた容疑で逮捕されていた。夫にとって有利な資料をドロシーは持ってシカゴに向かったと言われている。

【イラン・コントラ事件 Part 1】
 1980年代のアメリカを象徴する出来事をひとつ挙げるとするならば、イラン・コントラ事件だろう。このスキャンダルには2グループが関わっていた。主流派はアメリカの共和党/情報機関(ロバート・ゲーツ等々)とイスラエルのリクード/情報機関のグループ。後発グループはオリバー・ノース中佐とイスラエルの労働党が組んでいた。後日、議会やマスメディアが追及したノース/イスラエル労働党のグループは傍流だったのである。
 ノース・グループでイスラエル側の中心になっていたのがアミラム・ニール。労働党のシモン・ペレスと親しい対テロの専門家だ。
 イラン・コントラ事件が露見した後、ニールに対してもアメリカの議会は証言を要求してきた。その証言の直前、1988年11月30日にメキシコでニールも「飛行機事故」で死んでいるのだ。彼が乗っていたセスナT210が墜落して彼とパイロットが死亡、3名の乗客は助かったと報道されている。(その後、イスラエルの情報機関が調査したところによると、ニールは機内で射殺されていた。)

【イラン・コントラ事件 Part 2】
 ロナルド・レーガン大統領の命令で設置されたイラン・コントラ事件調査のための委員会で委員長になったのはジョン・タワー元上院議員だが、彼は調査するまでもなく、事件について熟知していた。
 同事件の中心人物のひとり、ロバート・マクファーレンはタワーの部下だったことがあるほか、タワー自身がイスラエルの情報機関ときわめて親密な関係にあったのだ。(タワーが国防長官になれなかった最大の理由はここにある。)
 その後、タワーはイラン・コントラ事件に関する本を書き始めるが、出版されることはなかった。1991年4月5日、搭乗していた近距離定期便がジョージア州ブランズウィック空港付近で墜落、死亡してしまったのである。

【ケネディ大統領の息子】
 1999年7月16日、ジョン・F・ケネディ大統領の息子、ジョン・F・ケネディ・ジュニアが飛行機事故で死亡した。同乗していた夫人のキャロラインとその姉のローレンス・ベッセッテも死んでいる。
 彼らが乗っていたのは単発のパイパー・サラトガで、マサチューセッツ州の南方、マーサズ・ビンヤード島近くの海上で墜落したのだ。
 民主党と共和党以外の「第三党」の候補者として大統領選に勝利できる唯一の人物と言われていただけに、さまざまな噂が囁かれたものだが、その真偽はわからない。この事故を単に「ケネディ家に悲劇」と形容するほど筆者はナイーブではないが、何らかの謀略があったと主張しているわけではないので、誤解のないように。
 2000年の大統領選挙では民主党のアル・ゴア候補と共和党のジョージ・ブッシュ候補が激しく争い、最後はどちらが勝ったか不明瞭なままブッシュ大統領が誕生した。が、もしケネディ・ジュニアが立候補していたならば、これほどの混戦にならなかったかもしれない。つまり、ブッシュ政権は誕生しなかったかもしれない。
 繰り返しになるが、最後に一言。こうした飛行機事故全てが意図的に仕組まれたものだと主張しているわけではない。あくまでも、ウエルストン上院議員の飛行機事故死から過去の事故を連想しただけのことである。

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