メルマガ:非公式情報
タイトル:非公式情報20号  2002/10/08


---| OPC:米国の極秘テロ組織 |-----------------------------------

特別レポート「OPC:米国の極秘テロ組織」(600円)の販売が開始されました。
<http://great.mailux.com/mm_search.php?sh_mm_id=MM3D8ADF9051062>
まもなく、カード決裁が始まります。

---| 非公式情報 |-------------------------------------------------

1970年代の朝鮮半島
By Strangelove

 北朝鮮が日本人を集中的に拉致したとされる1970年代後半、朝鮮半島の情勢はどうなっていたのだろうか?情報合戦で怪しげな情報が飛び交う今だからこそ、基本的なことを振り返ってみたい。
 1961年5月、アメリカの後押しを受けたクーデターで政権を奪取した朴正熙体制を揺るがすアメリカ発の衝撃波が襲ってきたのは1960年代後半のこと。1969年1月に誕生したリチャード・ニクソン大統領が「ニクソン・ドクトリン」を打ち出し、翌年3月には在韓米軍1個師団2万2000名の削減案を発表、同年8月に訪韓したスピロ・アグニュー副大統領は朴大統領に対して「5年以内にすべての米軍を韓国から撤退させる」と伝えたのである。
 さらに、1971年になると韓国内部でも大きな問題が浮上してきた。韓国の民主化と南北統一を求める声に押されて出てきた金大中が朴大統領の強力なライバルとして出現してきたのである。そして1973年8月、朴政権は金大中を東京都千代田区のグランド・パレス・ホテルで拉致する。日本海で金大中が殺されなかったのは、米国側の警告があったからだと言われている。
 1975年になると、米国の証券取引委員会から再び衝撃波が韓国を襲う。米国の巨大石油会社、ガルフ・オイルが各国政府の賄賂を渡していたとする報告があり、調査が始まったのである。これはロッキード事件にもつながる。
 アメリカ政府の政策に不安を持った朴大統領は1970年から対米工作を本格化させる。現金、宝石、時計、高級家具、さらに女性の提供、招待旅行、博士号の授与などさまざまな手口が使われた。
 1975年4月、ジェラルド・フォード大統領夫人の筆頭秘書だったナンシー・ホーがホワイトハウス当局の取り調べを受けているが、それ以降、韓国政府によるアメリカの議員に対する買収工作の調査が本格化、1976年10月24日付けのワシントン・ポスト紙の記事で全世界の人々がこの事件を知ることになった。これが「コリアゲート事件」である。
 アメリカとの関係が急速に悪化、国内でもデモが活発化する中、朴政権は目を北朝鮮やソ連に向けた。現在、国会議員を務める朴正熙の娘を北朝鮮が厚遇している歴史的背景はここにある。
 そして1979年10月26日、宮井洞(情報部長の別邸の執務室がある)にある晩餐会場で朴正熙大統領は金載圭KCIA(中央情報部)部長に射殺された。金部長は2発を朴大統領に撃ち込み、5発をほかの会議参加者へ向けて発射した。合計7発。部長が手にしていたリボルバーに装填できる銃弾は6発だけだ!
 その時、宮井洞には鄭昇和陸軍参謀総長も来ていたが、事件の約1カ月後、鄭参謀総長は朴大統領派の全斗煥保安司令官によって逮捕、内乱陰謀を幇助した容疑で起訴される。
 なお、後に全斗煥は大統領になるが、全政権もソ連や北朝鮮への接近を試みている。北朝鮮が日本人を集中的に拉致したとされる1978年頃、韓国と北朝鮮との対立が激化していたとする説明は成り立ちそうにない。

ブラウザの閉じるボタンで閉じてください。